70年目の新証言



この記事は週刊朝日2008年5月23日号に特集された記事をそのままコピーしたものです。
この歴史的に貴重な取材記録をバックアップのためページに保存いたしました。

ソースURL(2010.2.12現)http://www.wa-dan.com/
この素晴らしい記事を書かかれた記者(小宮様)もましてマニア向きのサイト経由で御覧くださる方がいると思えばこの上ない本望でございましょうか?。


高齢で記憶もあやふやでしょうが津山事件のエピソードは何年も知人には同じ内容を歌の歌詞のように語り続けてきたに違いなく、

事実5割、本人脚色2割、記憶忘れ3割??=5割、話半分と私は勝手に考えて拝読いたしました。



しかしながらまぎれもない
津山事件被害現場を見た方の貴重な話しであることには間違いございません。


1日5本程度しか運行されないJR因美線・津山行きの電車に、鳥取県智頭町の智頭駅から乗り込み、岡山との県境を越える。たどり着いたのは、事件が起きた現場の隣町だ。辺りは山深く、駅の周りで目につくのは、たばこ屋ぐらいしかない。
「お疲れ様です。どこから来なさった?」
 バスを待っていた初老の女性に声をかけられた。
「あの~、東京から70年前の事件の取材で......」
 記者が説明をしかけた途端、女性の顔からは笑みが消え、こう言って黙ってしまった。
「......その話は聞かんほうがええ」
 やはり口が重いようだ。
 無理もない。これほど身の毛がよだつような殺人事件は、例がないのだから。
 
 そんな折、事件を知る男性がいると聞いて、訪ねてみた。隣町に住む90代の男性Aさんである。
「ワシは女房が殺されたんじゃ」
 事件を目の当たりにした数少ない遺族だった。
「すごい事件じゃった。その日に新聞の号外が出て、大きい字で『昭和の鬼熊事件』(大正時代の連続殺人事件)と書かれていたんじゃ。それから、取材や小説を書くんじゃって、いろいろ来たけど、ワシは取り合っとらん。今も事件の遺族に会っても、事件の話は絶対にせん。当時の話をする人はおらんよ」
 初めはそう話したAさんだが、感慨深げに、
「あれからもう、70年もたつのか......」
 と漏らし、
「その時の状況を見とる人は、ほとんどおらん。もうみんな死んでしもうたから、迷惑もかけんじゃろ」
 と、重い口を開き始めた。

 

「事件のあった時、ワシは数えで22歳。昔は成人式が済んで、21歳で徴兵検査を受けて、嫁をもらったんじゃ。それで、ワシも22歳の時に(事件のあった)隣の地区から嫁をもろうた。実はその嫁の実家が、睦やん(都井睦雄)の近所じゃったわけじゃ。昔は『婿入り』言うて、嫁をもらった近所にあいさつ回りをするんじゃが、その時に睦やんの家に行ったら、一緒に住んどるおばあさんが、『うちにもあんたと同じ年くらいの若いもんがいるから、こちらへ来なさった時に、遊びに来てくださいな』って言うたわ。そこで紹介されたのが睦やん。モノを言わず頭を下げよった」
 
 Aさんが結婚して3カ月ほどたった5月20日、Aさんの妻の友人で、同郷の女性Bさんが声をかけたという。
「弟が結婚したから、祝いを兼ねて里帰りする言うて、誘ってくれてな。女房は行こうか行くまいかだいぶ悩んどったけど、結局行ったんじゃ」
 実に凶行の前日のことである。しかも、Aさん自身も誘われたという。
「里へ行く前に女房は、『飯を炊いて待ってるけえ、夜、(あんたが)仕事から帰ってきて一緒に飯を食べよう』って言っとったんじゃ。でもな、どうにもたいぎくて(しんどくて)、行く気にならんかった」
 間一髪で難を逃れたというわけだ。
都井の残した3通の遺書のうち、自殺現場にあった遺書には、〈今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあったB(注=原文では実名)が貝尾に来たからである、又C(同=Aさんの妻)も来たからである〉と、確かに2人が里帰りしたことが直接の犯行動機になったことが記されている。


 

 ところで、当時の報道や事件後の小説などでは、都井は村の複数の女性に夜這いをかけ、性的関係を持ったことが記され、そのことが事件の背景にあったとされているが、Aさんはこう否定する。
「小説にはこういう女はここへ嫁いだとか、ワシの名前も出とる。睦やんがワシの女房を手込めにしとったとも書いてある。(妻が)嫁に行く前に相当遊んでるように書いてあるが、女房が遊んだか遊んでないかは、ワシでなきゃわからん。それに村じゅうで関係していたように言われとるが、そんなことできるか?」
 
 犯行前日の5月20日午後5時頃、都井は用意周到に村の電線を切っている。
「睦やんは器用な男でな、普段から電気が切れたら、直してくれとったそうじゃ。その日も、『電気がこんで~』って、みんなが睦やんを訪ねたくらいじゃ。でも、睦やんはその日、『これはわからんけえ、今日は間に合わん。明日、僕が町の電気屋へ行って直すけえ』って言いよったらしい」
 その後、都井は自宅の裏手のお堂で、村の若者ら6、7人とともに宴会に参加していたという。宴会が終了したのは深夜0時頃。
 
 惨劇はその約1時間後に起きた──。
 都井はまず、黒い詰め襟の学生服に身を包み、軍用ゲートルを巻き地下足袋をはいた。頭に巻いた鉢巻きに小型の懐中電灯を角のように両側に差し、首に自転車用のライトを下げた。凶器となったのは、腰に差した日本刀と匕首(あいくち)。そして、以前から用意しておいた9連発の猟銃を手に持った。
 実は都井は以前にも銃を所持し、犯行の2カ月前に警察に押収されている。
「駐在所の巡査が『この者は末恐ろしいけん。処分しな』と言ったそうじゃ。でも、署長が、『この者はそれだけの野心はない』と判断したんじゃと。でも、睦やんはその後も神戸で猟銃を買っとった。『狩りに行く』言うて、山の中の大きい木に人間の絵を描いて、毎日、的撃ちしよったらしいわ。集落の者はみんな知っとったんじゃ」
 
 

最初の被害者となったのは、都井と2人で暮らしていた祖母だった。日付が変わった5月21日午前1時40分頃、都井は寝ていた祖母の首を斧で打ちはねて、銃で乱射した。
「昔はな、消防団が各集落にあったんじゃ。ワシも消防団員じゃった。その日の夜中の3時頃、警報が鳴ったんじゃ。『どこが火事や?』と思って集まったら、消防団のお偉いさんが、『貝尾で強盗が入った。人が殺されたらしい。犯人がわからんけえ、いま寄っても危険じゃけ、夜が明けてから応援を頼む。今のところは引き揚げて各家に待機しとってくれ』と言われた。ほんで、家に帰ったんじゃが、4時頃に集落へ行ったという友達が来て、『奥さんの実家も襲われとるみたいやで』と知らせてくれたんじゃ。それから無我夢中で集落へ向かい、着いた時は、朝5時頃じゃった」
 
 Aさんが集落へ着いた時、現場にはすでに警察の非常線が張られていた。
「絶対入れませんで」と警官に言われ、「女房が来て殺されとろうかいう時に入れんもクソもあるか。確認だけさせえ」と食い下がったAさんに根負けしたのか、「ほんなら、確認だけしたらすぐ出てくれ。犯人がどこにおるのかわからんのじゃけえ」と警官が道を開けたという。そして、Aさんはたった一人で現場の集落へ足を踏み入れた。
「集落全体が血なまぐさくてな、誰もおらんかったわ」
 Aさんの妻の実家は、都井宅と道路を挟んで向かい合っていた。妻の実家に向かう途中、Aさんが高台にある都井の家を見上げると、家の障子4枚が真っ赤に染まっていたという。
「女房の実家に入ると、その日ちょうど、女房の伯母が遊びに来とったようで、いちばん奥にワシの女房と2人並んで寝とった。2人とも、両方の胸撃たれて大きな穴が開いとったわ......これはもう死んどると、覚悟を決めた。反対側の右側に義父が寝とって、オヤジは起き上がったところを撃たれたんじゃろうな。座ったように横になっとった。義母は外へ逃げようと思ったんじゃろう、縁のほうへ這って出たようで、敷居をまたいで倒れて、はらわたがダラーッと出ておった」
 
 都井の遺書にはAさんの義母も実名で登場し、〈奴に大きな侮辱を受けた〉と記されている。
 都井は肺結核のため事実上、徴兵検査を不合格になった。その頃、Aさんの義母に性行為を迫ったが断られ、その際、病気のことを侮辱され、恨みを抱いていたようだ。
「4人がおった8畳間は、片足も入れる余裕がないほど血の海じゃった。ふと犯人が押し入れに隠れとったら......と、一瞬思ったんじゃ、そしたら髪の毛が一本立ちに逆立った。毛が逆立ついうのは本当じゃな」

 

次にAさんは、妻の妹が嫁いだ家へと向かった。この家のおばあさんは重傷ながら生き残り、数少ない目撃者となったが、事件の2、3年後に亡くなった。
 
「妹は腹が大きかったんじゃが、婿といっしょに殺されとった。そしたら、虫の息のおばあさんがワシの顔見てニヤ?ッと笑ったんじゃ。その顔が今でも忘れられん。真っ白い顔で半分逝っとるような顔やった。『親戚をみんな呼んですぐ来るけえ、元気を出しとってそれまで待っとって』ってばあさんに言うて、女房を誘った娘(Bさん)の家をのぞきに行ったんじゃ。ちりちりバラバラに殺されとったなか、その娘は生き残ったんじゃ。後から聞いたら、隣の家に逃げ込んで床の下に入りこんどったんやと」
 
Bさんは都井がいちばん気にかけていた娘だった。同じ集落の男性と結婚したが、都井が夜這いをかけようと、嫁ぎ先にまで侵入したことが原因で離婚した。しかし、数カ月後に別集落へ嫁いだ。
「(Bさんが)嫁に行く時に、睦やんが茅を積み上げて通せんぼしたそうじゃ。それくらい思いがあったんじゃろう。後で聞いたら、『おまえを残しちゃいけんのや!』言うて、床の下に隠れた娘(Bさん)めがけて、バンバン撃ち込んだらしい」
 
弾は幸運にも、喉をかすめただけで、Bさんは軽傷だった。都井は悔しかったのか、遺書で〈実際あれを生かしたのは情けない〉と綴っている。
 
結局、都井は約1時間半の間に、22軒あった貝尾集落のうち11軒、隣の集落1軒の計12軒を襲撃。33人を殺傷した。その後、集落から約3・5キロ離れた山へ登り遺書を書いた後、猟銃で胸を撃って命を絶った。
「山で睦やんが自殺しとることがわかると、みんな村へ帰ってもええいうことになった。それでな、睦やんのおばあさんはどうなっとるんじゃろ思うて、みんなで行ってみたんじゃ。そうしたら、おばあさんの首が転がって、体から1mほど離れとった。その血しぶきで障子がほんに真っ赤じゃった。その脇に、よう研いである血で染まった斧が転がっとった」
 
 都井は幼い頃、両親を肺結核で亡くし、姉とともに祖母に育てられた。その姉は嫁ぎ、都井は祖母の愛情を一身に受けた。過保護だという指摘もあったそうだが、都井がなぜ最も近い肉親をそこまで惨殺できたのか、いまだに謎である。
「事件後に睦やんの姉や警察の署長が香典を持って回ってきたけど、誰も受け取らんかった。事件から10日ほどたった頃、(Bさんと)初めて顔を合わせたんじゃ。そしたら、ワシに抱きついて『私が殺したんじゃ、こらえてください。こらえてください』と、泣きつかれた。『私はこれだけで済んだんじゃ』と、喉の傷を見せよったわ。もう少しずれてたら即死やで。運の強い言うたら、そういうことじゃ」
 
犯人の都井に対してはもちろんだが、Bさんにも複雑な思いはないのか。
「そういうことはない。人を恨む人は人間のクズじゃ。人は信用せないけん。でもな、ワシも人間じゃ。当時は、犯人がそこにいたら一寸刻みにしたらええ思った。それが人間の心情じゃろう」
 
 町の外れに都井と祖母の墓がある。立派な都井家の墓に紛れ、草むらに人間の頭よりひと回りほど小さい石が二つ、寄り添うように並んでいた。
 
地元住民によると、「せめて墓だけは」という声も上がったそうだが、あまりに残忍な事件だけにそのような形にとどまったという。
 
都井の墓を目の前にしたAさんは、
「70年かけて初めて来ましたわい」
 と、複雑そうな顔で笑った。 
 
本誌・小宮山明希
 




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