私が思うこと






(「津山30人殺し」に対する私の想像、妄想の意見です。)















 もはや夜明も近づいた、死にましょう 
 















「安部定」があの社会現象をも巻き起こした大きな事件を起こさなければ睦雄も犯行はしなかっただろう。
睦雄が大好きな「お定」も地元に住み容姿、性格同じ、情交にいたっていても睦雄の素行を見れば愛想つかして周りのみんなと同じく偏見の目で見て睦雄に討たれていただろう。(当時のにわか大スターも近くに居ればただの人)
頭に懐中電灯をくくり付け照らして犯行に及んだが暗くてあまり残虐な死体を鮮明に目にすることがなく、(犯行前に裏の「お堂」で飲んだお酒の酔いも手伝い)明るく直視していれば、遣った本人も気分が悪くなるのは当たり前で思うより視界が悪く勢いも手伝いその分殺人の数がこなせれたと思う。


睦雄は99%「地獄行き」だが三途の川の手前で渡るのを待っていた襲撃された先に来ていたみんなに寄って集って袋叩きにされたのは言うまでもない。

遺書に遺恨がかかれているから事件から数十年過ぎた今でも成仏できずこの世をさ迷っている
犯行後生きて逃げていてもどうせ捕まる。死ぬ覚悟ならば数日逃げ延びて討ち損んじた者を今一度狙いえば悔いも残らなかっただろうに
捕まる手前で自殺にいたってもよかったのではないか。警察と消防団には恐れをなしていたところが見うけられる。やはり「お定」の日にちに最後までこだわりたかったのだろう。
最後の○部家襲撃には腹も減るし酔いも冷めてしまい罪悪感に陥る。後悔と書き残した念を伝えたくどうしても紙と書くものがほしくなり行き当りで家に進入して所望したんだと思う。最後の最後に書くつもりなら家を出るときに携帯しているし襲撃宅で奪っている。
どうして急な荒坂峠の山頂近くで死ぬ必要があったんだろうか?怨念に憑依されやすい霊感体質だったみたいに思える。
徴兵検査?が受かっていれば事件歴史上に名を残す破目にはなっていなかっただろう。
横溝正史ブームもなかっただろう。
私もこのページなんか製作しなかっただろう。











「睦雄」君の天国の声(創作)















「安部定事件は」当時としては刺激的で興味深く毎日のゲンコツする時も他の女性とマンネリ化した情交に及ぶ時も果てる瞬間は「お定」のことを考えた事もあった。

調書の写し書きは当時としては
エロスで刺激の強い文字じゃった。読み返し暇にまかせ安部定でも何度もゲンコツした。

徴兵検査以来、地元での手の平を返したような重なるひどい差別な仕打ちの復讐を決めたとき同じ討つならば行動は5月18〜21日の三日間で行う。できれば偶然ではなく
故意に行う

3月にオバやんのせいで警察に今まで隠しためた武器まで没収されてしもうた。その時は殺してやりたいくらい腹が立った!我(わい)がよく眠れる薬を正直にやったのにあのババア、臭いだけで殺されると大げさに叔父さん達にふれまわし、結局警察沙汰になってしもうた。

万がいいことにゆり子に誘われて良子も里帰り中じゃし・・・。
同じやるなら、どうせ最後なら「安部定事件」のような世間が注目するようなことがしたい。と言うか肺病で余命も少ない、恨み、はらさで死ぬることができょうか!そうゆう考えの奴らは後々も生かしておいても世間のためにならない、我(わい)と一緒に短命でええんじゃっ!

最後に遺書にも「お定」のことを書こうと思ったんじゃが迷惑をかけることになりかねないのであえて書かなかったんじゃ。
「お定」の調書を見習って刑事が来た5月20日夕方5時ごろ電気を止めることから始める。
最後に死んで人前に出るときは見出しなみよくちゃんと新しいシャツも持って出て間際には着替えた。

翌日の新聞には予想もしていなかった嫌いなクソ「鬼熊」こと岩淵熊次郎と一緒にされたのは注目され嬉しい反面「どこがじゃ?」と予想外だった。

ともかく死んだ今となれば「お定」と同じ日に世間が注目し騒がすでかいことができた。

きっと「お定」も自分の存在にはには注目してくれたはずじゃったんだと思う。

その件に関しては悔いはない。


「おばやん」には本当に惨めな死に方をさせたと思う。だが、毎日の愚痴と説教にはもう疲れた。我(わい)両親とも血もつながらない他人が我(わい)の人生狂わせやがった!!あの時(ものごころついた時期折々)我(わい)がしたいこと、聞いてくれたらこんなに惨めな思いもせずにここで暮らすこともできただろうにっ!今となれば遅くてもあの時の我(わい)願いが叶わなかったことが後悔の一言につきる。いくらまだ我(わい)が歳はいかなかったと考えても。オバやんには姉(あね)さんも育ててもらいありがたくは思うが我(わい)のオバやんのせいで貝尾での惨めな思いは分かるまい!!

3月のあのとき素直に薬を飲んでくれたなら大事にもならず、すんなりと皆を早く討つこともできたのに。また、今考えれば今回の決行もな無かったかもしれない。


高い値で買った銃も取られてしもうた。それにあの一番に憎い「マツ子」!我(わい)が計画をもらしたのも後悔するが誰にも言うなと申したのに、きゃつも警察にオバやんと同じく訴えでたにちがいない!3月12日手入れをくったその日のうちに津山の方へ逃げてしまい、決行前の5月17日までには我(わい)が留守、神戸に行っているのを誰かに聞いたのかその日のうちに残りの荷物をまとめて貝尾から出て行ってしもうたらしい・・・・・・。何度考えても悔いが残る。

銃を買い戻す為に無駄な時間は費やしたがその分、虐げてきた奴らに対する怨念も深くなってきた。そのおかげで金も底をついた、借金を返すあてももうない、月末の支払いもまじかじゃっ。もうこれで皆を打つ迷いも薄れることがなくできた(殺)んじゃ。他人の迷惑もこの戦時下(日中戦争の中)、先のことはもう我(わい)には関係ないことじゃちゃっ!

もう、
お金も使い果たし「マツ子」を追い掛けることも、生きていくことすらままならなくなり「いそばあ」にもひもじい思いもさせたくないし我(わい)と一緒に死んでもかまわんじゃろ。今後の愚痴と説教はあの世で聞いちゃるわいやっ、腹が立けどオバやんは我(わい)はいつまでも一緒に居たいんじゃっ・・・。

もう土地も抵当に入っているし「うつき原」の六百円の借金のことも内緒だ。返すあてもすべもない・・・・。仕方がないが「道ずれ」にさせてもろうた。



「あの世」というのがあるのなら必ず幼いとき過ごした時のように又楽しくおかしく「おばやん」と・・・・。
まだ見ぬ両親と一緒に生きていきたい。願わくば村中でも皆と同じく無常に無視される事が無かった、前の
楽しかった時のゆり子とも・・・。





21日土曜日の昼間、加茂まで自転車で食う物を買いに出たんじゃが、帰り途中酒を皆に飲ますことを思いつき、また加茂駅近くの酒屋まで行った。
結局加茂まで2回往復した。
加茂まではいつも通いなれた。道駐在所までの時間はどれくらいかかるかは分かっておる。



行重の周りの者が「
出征」してみんなが祝って盛大に送り出してくれる。寺元のから皆を見送るように幾度も言われたが体調を理由に参加せんかった。
正直、徴兵をハネられた我(わい)には関係ないことだ。

本当はおばやんを一人残して兵隊に行くのも悔いが残るし、お国のためとはいいつつ軍事訓練なんぞ運動ごとなど我(わい)にはあわん、我(わい)から結核だと軍医殿に言うたらみごとにはハネられ嬉涙が出たんじゃ。だが、貝尾に帰ったら皆が非国民扱いをしはじめた。
・・・・辛かった。おばやんにも申し訳ない気持ちでいっぱいじゃった。

決行日最後に裏の萱葺きのお堂でめぼしい者達数人を集めささやかな我(わい)の
「出陣式」を自分で内密に企画して見送ってもろうたじっちゃっ。話題は見たことが無い女のためか「寺元の新しく来た嫁」のことばかりじゃぁ、正直、我(わい)「面白しろうないわっ!」

酒を飲ましてやると言ったらあ普段喋らぬ者も集ってきた。もちろん周囲が我(わい)のことをどう見ているか聞き出すのもある。お堂の中の三体の仏様も証人じゃちゃっ!!それで最後に真の討つべき者も把握できる。



他の同年の女は無碍で変わり者扱いする。幼馴染でよく遊んだ当時のゆり子は優しかった。でもゆり子は我(わい)と村で会ってもそ知らぬ顔をとゆうか我(わい)存在を見てない、今から考えると無視していたんだろうが・・・。

婚姻の約束をしておきなが肺病のことを知ると手のひらを返し冷たくなり、周りの奴らにも意見されたのか草々に
「物見」へ嫁に出してしまった。
卯一んとこへ嫁入りの日、屋根が変えで道端に干してあった葦でほんの少しじゃが道をふさいでやったがあのときの我(わい)を見る迷惑そうな寺元一家「目」は忘れることができない。思い出しても腹が悪い。


斧も初めは討つべき仕度用に持ち出すつもりだったがどうにも重く、銃と塀用するには邪魔になると思い裏口に置いてでた。

返り血と銃声の爆音と討ち放ちどきの後力で肩も痛い。雨上りで寒いし、耳は聞こえなくなるし煙で息もままならない、肩もだるく痛くなったが
「復讐」「怨念」で心をつないで最後まで行動できた。戦中、あれほど大きな銃声と悲鳴がおこったが不思議と周りの家の者は静かじゃった。襲う家は家族の取りこぼしが無いように心がけたが無我夢中で何人遣ったかは覚えていない。

寺元倉一襲撃時に道向かい後方「岸田順一」が騒ぎに気づき物音がして、討たれてはこれはしたりと思った。我(わい)より鉄砲腕が達者なやつには叶わぬと退散。遺書にも書いたが無念じゃが「倉一一家」は討ち損じた。

向かい討つべきにもう少し実弾に余裕があれば騒ぎ出した連中にも銃弾を撃ちこむことができたのにと悔やまれたが罪(トガ)の無いものは討たないと要約、我(わい)にも冷静さが出てきた。

じゃがっ、今となればこの日のために、これだけしておいて、消防組部長「長平某」に買い取られた銃の方が愛着もあり使いなれておったが結局は日の目を見ることができない代物(銃)だったと坂元(本)の
岡田の所へ行きながら思おた。


あれだけ銃声がしたらあたり前じゃけど
みよを打った後、隣の以前庄屋だった本家が騒ぎ出した。津山藩御用達の「葵の御紋」、普段はウトイ年老いた坊ちゃんの「岡田和夫」でも再婚の話しが続くのも納得がいく。

すぐさま表に出て坂元の大道へ出た。右へ(加茂方面)逃げれば追っ手が来るじゃろ・・・・。あてもなく千の城山方面へ足が行った。
よく考えたら山に登れば産んでくれた両親の墓がある倉見まで行ける。
(当時(今は林道ですが荒坂登る下のお地蔵様より右手に上ると、ですが倉見地区端に行くがそこから睦男の両親の墓まではまだ遠いです)獣道が着いていた)

又は姉(あね)さんがいる一宮にも行ける!数回姉さんの所に行った時拝んだ
仲山大明神様も今回の我(わい)のことも許してださるはずじゃ!?

どうしょうか悩んだ。

予定外じゃったが、初めてじゃったが水車が近くにある部落はずれの
竹本家へ寄った。雨上がりで田植えもすんだ田んぼには寒いが星も見える。きれいな月が映っている。

頭に付けた懐中電灯も岡田宅より坂を上がる途中に鉢巻きも緩んできたし邪魔になってはずした。

坂元から坂を走り続けて息も荒くなるが、我(わい)も先ほどとは違い、冷静になり先ほどの業が夢であってほしい気持ちと現実から逃げられない恐怖を感じた。

最後に皆に伝えるべき遺書おと、思いなおし青山(樽井)に行った。たまたま我(わい)の顔見知りの子供がいて、すぐさまにその子の名前も思い出しお爺さんとの会話の手前もつくろえた。我(わい)も先ほどとは違い、冷静になり先ほどの業が夢であってほしい気持ちと現実から逃げられない恐怖を感じた。

最後に皆に伝えるべき遺書をと、思いなおし青山(樽井)に行った。たまたま我(わい)の顔見知りの子供がいて、すぐさまにその子の名前も思い出しお爺さんとの会話の手前もつくろえた。我(わい)は、なんの記する物でもよかったのだがその子は地理の雑記帳をさしだした。我(わい)は数枚破り、お礼を言い武元家を後にした。倉見越えはここから引き返し右の道から真っ直ぐ山に上る。

狭い獣道だが倉見の親の墓までに行こうと思ったんよ。・・・

じゃが、上らず、左の荒坂道へ、どうにも貝尾のことが気になり荒坂峠へ足が行った。



じゃっ、どうにも峠で貝尾の様子を伺いたかった。

さすがに身につけている物の重さで肩と腰に負担がくる。今は目が鳴れてきて月明かりだけでも十分道が見える。じゃが、雨上がりで道はぬかるみ足袋が重たい。

荒坂山頂じゃぁっ!・・・。このまま、この坂を降りると「高田」まで行けるがこの上の山、尋常小学校の遠足で行ったことがある見晴らしの良い所へ行けば貝尾が見える!その時は何も考えなかった・・・・我(わい)が死のう思うことも・・・。

思い出の懐かしい山頂近くで見わたすと遠くで日の光は登がろうとしているがまだ々暗い、冷たい風に混じりながら何を言っているかは分からないが村人の女の声が聞こえた。まだ警察や消防組の者たちは来てはいないようだ。

我(わい)は今は汗が引いてとても寒い。




荒坂までたどり着き落ち着きだしたらた罪(トガ)がない者を殺した後悔と
追っ手の不安、眠いし、腹は減るし、汗が引いてとにかく寒い!(ま〜っ、我(わい)も死ぬ気はあったんじゃがっな〜っ現実は辛い)今さっきの業が夢であってほしかった。



でも、現実にもどり倉見までは行けん
「やっぱり、これだけの業をしたらこれから死なないけんのんじゃ〜な〜っ。」と最後の遺恨とばかり手紙を書いたんじゃ〜っ・・・・・。
6枚、ノートの紙をもらったはずじゃが、5枚しかない。どこかで落としたんじゃろう?
まあっ、ええっ、最後じゃけえっ、思いを書いて最後とするんじゃあっ・・・。


幼いときからなっ、四季を教えてくれた「仙の城」の野の木花になって形は見えなくとも「重行」の皆を見守って生きたいと綺麗ごとじゃが最後は思ったんよっ。

てか、もう疲れた。たいぎい、どこにも行きたくなくなった。眠たい。早く楽になりたい。



まだ月が見える。周りは暗いが夜明けが近かづいたのか田んぼの蛙の声がし始め鳥たちが鳴き始めた。

おえん、疲れた、もう限界じゃっちゃ・・・・・。

最後、引き金を足の親指で引いた・・・。


ふっ・・?

死んだんかな?


その瞬間から寒さも忘れ体が軽くなり気持ちが楽になって、そのまま貝尾の村まで降りて殺ったみんなのところを改めて見て周った。



今田駐在と近隣の部落の者が数人、電池を片手にお堂の下の「公会堂」の広場で寄り合いをしている。我(わい)が隣に近かづいても誰も気づきもせぬ。


撃ったはずじゃった岸本の
もいつのまにか我(わい)の左側におる。が途中まで我(わい)と一緒についてきたのは会話はしなかったが不思議じゃった。



瞬間に、我(わい)が頭の中で思ったじゃけで部落の家々に行ける・・・。



我(わい)がしでかしたことじゃがっ・・・・・・・・・・・・・・・。きょうとぇっ・・・・・・・・・・・・・・・・・。




見まわっているうちに皆への後悔の思いでどうしょうもなくなった。



「すんませんっ、みんなこらえてつかーさぁ」と心から言ったが、そのときお堂の下の公会堂の庭に小さな竜巻が起こっただけだった。













もう、みんなに償いはできない身体になったとそのときに初めて思った・・・。





















じゃが、我(わい)の心はすこしははれた。

























じゃがっ

























人によれば「ええ気味じゃっ!」とも思う。




































とか
「睦雄」君が言ってそうな気が私はします。














(筑波本、ネットから得た情報で自分の感性入れて構成した文でなんの脈略もありません)






















「阿部定は好き勝手なことをやって、日本中の話題になった。わしがどうせ
肺病で死ぬなら、阿部定に負けんような、どえらいことをやって死にたい
もんじゃ」















実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。










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